いよいよ裁判員制度がスタートしました。もしかしたら私のところにも裁判員候補の通知が来るのかと、期待と不安が半々の状態で待っていましたが見事くじに外れました。
先日の新聞記事で知ったのですが、警察の近代的制度を作ったり、裁判所を全国の主要都市に張り巡らせたのは、明治新政府の司法卿(現在の法務大臣)だった佐賀県出身の江藤新平だったんですね。
その後江藤新平は明治6年の政変で、政敵・大久保利通らに破れ、西郷隆盛らとともに下野して政界を去っています。彼はその後しばらくして故郷佐賀に帰ります。
明治初年の日本は各地で不平士族たちが反乱を企てていて、まだまだ国情が安定していませんでした。佐賀ももちろんその渦中にあり、それを鎮静するつもりで帰郷したのです。
しかし結局は彼ら不平士族の総大将に祭り上げられ、各地の反乱の口火となる佐賀の乱(1874年)を起してしまいます。戦は短時間で政府軍に鎮圧され、江藤以下数名の幹部は逃亡。江藤新平は佐賀から鹿児島を経て逃げましたが、すでに手配写真が全国に回っており、土佐(高知県)においてついに政府の警察に捕らえられ、佐賀裁判所に送られました。
この末端まで行き渡った警察力や、犯人の手配写真配布などの近代的制度を作ったのが、実は江藤新平自身だったのです。手配写真で捕まった第1号が、江藤新平本人だったという事を知り本当に驚きます。自分の仕事の完成度を自らが捕まることで知るという、皮肉な結果でした。
かねてから江藤新平の政敵として彼を苦々しく思っていた大久保利通は、政府から全権(行政権・軍事権・司法権)を委任されて江藤の裁断の場に自ら赴き、処置を指示しています。そして江藤新平に下された判決は、「除族の上、斬首さらし首」でした。これは江藤が作った法律(新典)にはない旧法による判決でした。わずか2日間の審議で判決当日に斬首となりました。享年40歳。
この判決は彼の失脚をもくろむ大久保が最初から決めていたことで、裁判はきわめて形式的なものでした。江藤新平は最期の処断のとき、「ただ皇天后土のわが心を知るあるのみ」と三度叫んだといいます。「俺の心はただ天とこの大地のみが知っている」という意味だそうです。